藤井ヨシカツ写真集展「Hiroshima Graph」2021年7月31日(土)〜2021年8月9日(月) | ハチドリ舎
広島を拠点に制作してきた「Hiroshima Graph」シリーズから、毒ガス製造の歴史を持つ大久野島を題材とした「Rabbits abandon their children」、祖母の被爆証言を基にした「Everlasting Flow」を展示。手製本の写真集を通し、加害と被害の両面から戦争の歴史を考察します。
本展では写真集完成に至るまでのすべてのダミー本を陳列するほか、壁面には写真集の世界観を表現したインスタレーションを展示いたします。また作家在廊時には写真集の製本作業をしておりますので、製作工程もあわせてご覧いただけます。
会期
2021年7月31日(土)〜2021年8月9日(月)
※開廊日時はカフェ営業日時に準じます。今後変更となる可能性もございますので、事前にご確認の上、お越しください。
作家在廊日などはSNSでも随時掲載しております。
twitter @yoshikatsufujii
instagram @yoshikatsufujii
入場料
無料(カフェ内での開催ですので、お一人様につきワンオーダーをお願いしております)
会場
〒730-0854 広島市中区土橋2-43-201
☎082-576-4368
営業時間
月・火:定休日
水・木・金:15:00〜18:30
土・日・祝:11:00〜18:30(ランチあり)
※8月6日は11:00から営業いたします。
※予定は直前で変更となる場合がございます
トーク第1弾
藤井ヨシカツ写真集展「Hiroshima Graph」 ギャラリートーク
展覧会のオープニングイベントとして、藤井ヨシカツによるトークイベントを開催します。長期プロジェクトとして「Hiroshima Graph」に取り組む経緯、手製本の写真集として作品発表を続ける意味と理由。その本が物語る真意、制作を進める中で何度も向き合ってきた課題や経験についてお話しします。
7月31日(土)19:00〜21:00
参加費: 1,000円(店内参加は1,000円+1drink)
要予約
トーク第2弾
藤井ヨシカツ写真集展 Hiroshima Graph ギャラリートーク「EVERLASTING FLOW」
7/31スタートの展覧会の最終日、藤井ヨシカツによるトークイベントを開催します。 爆心地から1・2㎞にある自宅で被爆した藤井さんの祖母、久子さんの経験と、原爆が投下された場所を撮影した写真やアーカイブイメージとを結びつけることで、どのように個人がトラウマとなる記憶を隠し、どのようにそのトラウマが次世代へと受け継がれていくのかを探る最新作「EVERLASTING FLOW」について、語っていただきます。
8/9(祝) 19:00〜21:00
参加費: 1,000円(店内参加は1,000円+1drink)
要予約
DM設置協力施設・店舗
Social Book Cafe ハチドリ舎
JMSアステールプラザ1F 情報交流ラウンジ
READAN DEAT
イノベーション・ハブ・ひろしまCamps
広島国際会議場 国際交流ラウンジ
南区民文化センター
東区民文化センター
はつかいち文化ホール ウッドワンさくらぴあ
中島仲次郎商店
THE POOL
広島県民文化センター 文化情報コーナー
M98(基町プロジェクト現地活動拠点)
※2021/7/25 現在
Hiroshima Graph - Rabbits abandon their children
戦後70年以上を経た被爆都市広島。街に残された戦争の名残りは色褪せ、その壮絶な体験を証言できる被爆者も少なくなっている。そうした危機感から、この街に残る記憶の痕跡を見つめ直し、広島から発信していく試みとしてHiroshima Graphという写真プロジェクトに取り組んでいる。そして広島と戦争の歴史を調査していくなかで、大久野島のことを知った。
大久野島は広島県竹原市忠海町の沖合いに浮かぶ周囲約4キロ程の小さな島で、戦後放たれた数羽のウサギが瀬戸内の温暖な気候の中で繁殖し「ウサギ島」として知られるようになった。この島には国民休暇村が建てられ、海水浴やキャンプを楽しめるリゾート島として国内外からたくさんの人達が観光に訪れる。
一見とてものどかな島だが、実は「毒ガス島」とも呼ばれ第二次世界大戦以降の化学兵器製造の実態を今に伝える施設跡が、廃墟として島内のいたる所に残されている。この島では、日中戦争から第2次世界大戦にかけて密かに毒ガスの製造が行われていた。労働に従事した人たちは延べ約6700人といわれ、原爆と同じように戦後多くの人々がその後遺症に苦しみ、中には殺戮に加担してしまったという自責の念に苛まれ続ける人もいる。
これまでうんざりする程の平和教育を受けてきた私でさえ、この島の隠された歴史についてほとんど知る機会はなかった。広島に住んでいると、平和という掴み所のない言葉が身近に溢れ被曝都市としての戦争の被害の側面しか見えてこない。しかし同じ広島のこの小さな島には、ひっそりと加害の歴史が横たわっているのだ。
どれだけひどい目に遭ったかを知ることはとても重要だが、それだけを訴えていては平和という言葉はいつまでも曖昧な意味しか持ち得ない。戦争の悲惨さの語り部は、かつての毒ガス被害者であり工場跡である。その存在こそが悲
惨さを語る。その時、私の写真がそれらの存在を明かすための装置となる。
戦争と大久野島との関わりはもっと古く、日露戦争の際に軍都であった呉を防衛する目的で要塞が築かれ、幾つもの砲台が設置された。
その後、毒ガス研究において諸国から遅れをとっていた日本軍は、東京の陸軍科学研究所で研究開発し、大量生産の拠点として大久野島に製造工場を置いた。生産量はピーク時の1941年で年間1600トンにも及び、その種類によって黃、茶、赤、緑と色分けして呼ばれた。
島の存在は秘匿され、1938年に陸軍が発行した一般向け地図では大久野島一帯は空白地域として扱われた。対岸の近隣住民も多く働いていたが、島で行われていることの一切の他言を禁じられた。また島の方をじっと見ていただけでスパイの嫌疑をかけられたり、海岸に沿って走る呉線の列車は忠海に差し掛かると鎧戸を閉めさせられるなど、情報の漏洩は徹底して防止された。
また朝鮮戦争の際には工場がアメリカ軍の弾薬庫として使用されるなど、長く戦争に利用されてきた歴史を持つ。
日本政府はこうした負の部分を見せたがらず、この島にある戦争遺跡の保存にもあまり積極的ではない。それらは崩れてしまえばそれでお終いというのが現状なのだ。
またかつての島の労働者で現在の存命者は約2000人といわれるが、その中でも直接毒ガス製造に従事していた人となるとほとんどが90歳を越えている。直に証言を得られる時間はそう多く残されていないのだ。しかし私たちにはその事実をまた次の世代へと伝えていく責務がある。広島に産まれた写真家として、私の写真がこの事実を明かすための一助となることを望んでいる。
Hiroshima Graph - Everlasting Flow
真夏の早朝、真っ青に晴れ渡った空から一発の爆弾が落とされた。
一瞬にして街は火の海と化し、全てが失われた。
あれから70年以上経った今も原爆症に苦しむ人々。そして、それが遺伝するのではないかという見えない恐怖心は、何世代にも渡って植え付けられ続けている。あの日以来、広島市民は重い十字架を背負い続け、降ろすことをずっと許されていない。
戦後、広島は有数の平和記念都市として被爆者が語り部となり、彼らの悲惨な経験が世界中に発信されてきた。しかしその他多くの被爆者と同じく、私の祖母も90歳を越えた現在まで、自身の被爆体験や戦後に味わった苦労を家族にもほとんど語って来なかった。
思い出したくもないという感情に加え、今こうして自分が生きていることが、あの時亡くなった人たちに申し訳ないという気持ちもあるという。
しかし奇跡的に生き延びた祖母がいたからこそ、今ここに私がいる。広島が背負った歴史の証明として、次の世代へと伝えていくべき重要な証言として、祖母の物語を私が語り継がなければならない。
原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていないが、被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がおり、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したとするデータもある。
爆心地から1・2㎞圏内で被爆した人々は、その日のうちにほぼ50%が死亡したと言われている。 それよりも爆心地に近い地域では80〜100%が死亡したと推定されている。また、即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、近距離で被爆し、傷害の重い人ほどその後の死亡率が高かったようだ。
祖母が被爆したのは、ちょうど爆心地から1・2㎞にある自宅だったので、50%の確率で生き残ったことになる。「あの時、あそこにいれば無傷で助かったのに。」或いは「あの時、あんなことをしてしまったから死んでしまった。」ほんの些細なことが人間の生死を分け、祖母はかろうじて生き残った。しかし、自分が助けることができたかもしれない人のことを語る祖母の表情は、データを見ているだけでは想像すらできない、重く暗いものだった。
以前は、左脚の大きな傷跡以外にも多くの傷跡が残っていたようだ。しかし今では、ほとんど皺と見分けがつかない。左脚さえ見なければ、彼女が被爆者ということさえ誰も分からないだろう。同じように、広島の街には高層ビルが立ち並び、被爆者から直接体験を聞ける機会も減少した今、70年以上前の出来事を感じ取ることは難しい。
しかし今でも、原爆の影響で健康被害を持つ人がいるし、結婚や就職で差別されてきた人々も存在する。そして私達、被爆者の子孫は、いくら原爆症の遺伝は医学的に証明できないと言われても、漠然とした不安に囚われている。それら全てがヒロシマの記憶であり、祖母と私達家族の歴史もその一端である。そしてそれらは、核兵器の恐ろしさを世界に伝えるために記録されねばならないものだ。
思い出すことの辛さを押し殺して、私や未来の誰かのために話してくれた祖母。彼女への尊敬と愛情を込めて、私はこの本を後世のために遺す。被爆者が負った傷と心の痛みを忘れてしまわないために。
藤井 ヨシカツ
広島県出身。東京造形大学で映像を学んだのち、2006年より写真制作を開始。社会問題に纏わる歴史や記憶を主なテーマとして制作に取り組んでいる。作品はこれまでにニューヨーク・フォトフェスティバル(アメリカ)、フォトエスパーニャ(マドリッド、スペイン)、フェニックス美術館(アメリカ)、デリー・フォトフェスティバル(インド)、ゲッティ・イメージズギャラリー(ロンドン、イギリス)、チョビメラ国際フォトフェスティバル(バングラデシュ)、ジメイ・アルル国際フォトフェスティバル(厦門、中国)などで展示された。
離婚した両親と自身との関係をテーマにした作品「Red String」は、2014年に少部数限定の手製本による写真集として発表された。同書はパリフォト・アパチャー財団写真集賞などにノミネートされたほか、米タイム誌をはじめとする2014年のベスト写真集の一冊に選出されるなど注目を集めた。
2015年以降は故郷の広島に拠点を移し、長期的な調査プロジェクト「ヒロシマ・グラフ」の制作に取り組んでいる。このプロジェクトは広島に生まれた被曝3世としての視点から、誰も知ることのなかった歴史の証言や広島に生きてきた人々の軌跡、風化していく戦争の爪痕にあらためて眼を向け、後世へと伝えていく取り組みである。 写真集「Red String」「Hiroshima Graph - Rabbits abandon their children」はともにニューヨーク近代美術館(MoMA)図書館に収蔵されている。
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